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広島地方裁判所 平成8年(わ)129号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  公訴事実

被告人は、みだりに、平成七年九月二二日ころ、広島市中区《番地略》のA子方において、同女に対し、フェニルメチルアミノプロパンの塩類を含有する覚せい剤結晶粉末約〇・〇五グラムを無償で譲り渡したものである。

二  事案の概要及び争点

1  関係各証拠を総合すると、以下の事実が認められ、これらの事実については、当事者間に特段の争いはない。

(一)  被告人は、平成元年に暴力団甲野会乙山組組員となり、平成六年四月同組若頭補佐Bの舎弟となった。Bは、同組幹部であったCの舎弟であり、A子はCの内妻であった。被告人は、平成七年一月ころ甲野会に脱会届を出し、同年一一月ころ甲野会から破門処分となった。

(二)  被告人は、平成七年二月一六日、広島地方裁判所において、覚せい剤取締法違反の罪により懲役二年の判決を受けたが、翌一七日控訴を申立て、同日保釈釈放された。その後、平成八年二月六日右判決が確定し、同年三月四日から刑の執行を受けている。

(三)  A子は、平成七年七月、広島地方裁判所において、覚せい剤取締法違反の罪により執行猶予付き懲役刑の判決を受けたが、その執行猶予期間中である同年九月二四日、保護司と共に広島東警察署に出頭し、覚せい剤を使用した旨供述したことから緊急逮捕された。A子が任意提出した尿を鑑定した結果、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出された。A子は、「平成七年九月二三日ころ、自宅において、覚せい剤粉末約〇・〇四グラムを水に溶かして自己の身体に注射し、覚せい剤を使用した」旨の公訴事実で起訴され、右事実につき、同年一一月三〇日、広島地方裁判所において、覚せい剤取締法違反の罪により懲役一年四か月の実刑判決を受けた。

2  A子は、後記の通り、同女が最終使用した覚せい剤は、平成七年九月二二日に被告人から無償で譲り受けたものである旨供述している。これに対し、被告人は、捜査段階において当初右事実を否認し、その後いったんは認めたものの、公判廷において再び否認するに至っている。そこで、A子の右供述が信用できるかどうかが本件の主要な争点である。

三  A子の供述の信用性について

1  A子の供述の内容

A子は、被告人から覚せい剤を譲り受けた際の状況等につき、大要以下のとおり供述している。すなわち、A子は、Bから、保釈中であった被告人が近いうちに収監されると聞き、「務めに行くのなら真面目に務めて一日も早く帰ってくればいいな」という気持ちから、平成七年九月二二日、被告人と連絡を取り、「食事でもしようか」と誘った。同日午後一時ころ、待ち合わせ場所に車で現れた被告人とともに、広島市中区昭和町の「丙川」という大衆食堂に行った。食事をした後、店の前に止めてあった被告人の車に乗り、「(覚せい剤を)やめているのかね」と聞いたところ、被告人は「やめている」と答えた。その後被告人にマンションの前まで送ってもらったが、被告人が何か話があるという感じだったので、自室に上がってもらうことにした。被告人を一番奥の六畳和室に座らせて、飲み物でも出そうと思い、何がいいか尋ねたところ、被告人が「水ください」と言うので、水を渡した。その後自分も何か飲もうと思い、台所に行って冷蔵庫を開けたが、被告人の話を聞いてからでいいやと思い直し、被告人がいる部屋に戻ると、被告人が覚せい剤を腕に注射していた。びっくりして「何やっとるの」と注意したが、被告人は言うことを聞かず、注射した後また覚せい剤の水溶液を作り、「これはねえさんのですよ」と言って勧めてきた。そこで、「私(を)何だと思ってるの、やれるもんならやってみんさい」という気持ちで自ら袖をまくり、腕を差し出したところ、被告人は、A子の腕に覚せい剤を注射した。その後、被告人は、使用した覚せい剤とは別の覚せい剤をセカンドバッグから取り出して「これは置いて帰ります」と言ってテーブルの上に置いた。その覚せい剤は、警察で量目表を使って確認したところ、〇・〇八グラム位の量であった。その後この覚せい剤を二回に分けて使い、逮捕される前に最後に使ったのは、翌二三日の夕方であった。以上のとおりである。

2  A子の供述の信用性について

(一)  まず、前記二1の事実及び関係各証拠を総合すると、被告人にとってA子は、被告人の兄貴分であるBのさらに兄貴分(すなわち暴力団関係者がいうところの「叔父貴分」)にあたるCの内妻であって、BもCも当時服役中であり、被告人とA子は、それまでCやBらを通じて付き合いがあっただけで、個人的に親しくしていたわけではなく、しかも被告人は当時覚せい剤取締法違反の罪により実刑判決を受け、控訴保釈中であったと認められるのであるから、そのような立場にあった被告人が、叔父貴分であるCの留守中、その内妻であるA子に誘われて一緒に食事をした後、同女方に上がった際、あえて同女の目につくような状況の下で自ら覚せい剤を注射し、その後頼まれもしないのに同女にも覚せい剤を注射してやり、その上覚せい剤を置いて帰ったというのは、それ自体不自然かつ不合理である。

(二)  また、A子は、被告人から譲り受けた覚せい剤のパケの大きさについて、検察官からの質問に対し「三センチ、三センチぐらいの」と供述した後、検察官からの「なんか約三センチと約一センチの大きさのパケだったということで間違いありませんか」という誘導尋問に対し「はい」と答え、さらに検察官から「三センチ、三センチぐらいの大きさのパケ」と確かめられたのに対しても「はい」と答え、その後の弁護人、裁判官及び被告人からの質問に対しては、「普通のノートの行くらいの幅で、三センチぐらいの(長さの)もの」「三センチ×三センチということはない」などと答えている。このように、A子の供述には、被告人から譲り受けた覚せい剤のパケの形状、大きさという重要な事項について、曖昧な点が含まれているといわざるを得ない。

(三)  さらに、A子は、被告人から譲り受けたのは、被告人が使用した覚せい剤の残りではなく、もともと封がしてあった別の覚せい剤である旨供述しているが、被告人が使用した覚せい剤の残りないしはパケをどうしたかについては「知らない」と答えるのみである。また、被告人が帰った後、被告人から譲り受けた覚せい剤を使用するのに使った注射器は、平成七年五月ころ被告人からもらったものであると供述しながら、どのような経緯で注射器を譲り受けたかについては極めて曖昧な供述しかしていない。

(四)  加えて、A子は、本件当日被告人と会ったとき、被告人に連れがいたのではないかという弁護人からの質問に対し、「(被告人は)一人じゃなかったでしょうか」「彼(被告人を指す。以下同じ)のことは覚えてますけど、あとのことは分かりません」「私は彼にしか用事がなかったので彼しか見てませんから分かりません」「(もう一人)来てるでしょうと言われても、私はそのときは彼しか眼中にないので分かりません」「私は彼とは食事はしました。ほかの人がそこにいたのかどうかは知りません」「彼は一人では来ましたけれども、人がいたのは知りません。うちには彼一人しか上げてませんし、私は知らない人は家に上げない主義なので」などと答え、裁判官からの質問に対しても「私は彼一人しか目に入っていないです」と答えている。A子の供述によれば、同女は被告人と待ち合わせて一緒に食事をし、その後同女方に行くなど、ある程度の時間被告人と行動を共にしたのであるから、その間被告人に連れがいたかどうかについては、「いた」か「いなかったか」いずれであるかはっきりと答えられるはずで、何故「被告しか見ていないから分からない」といった不自然な答えを繰り返すのか、理解し難い。この点について、A子は、「(被告人に連れがいたという)本当ではない話をされて頭に血が上り、動転していたので」そのような答え方をしてしまったと供述するが、それ自体到底合理的な説明とはいえない。

なお、被告人の友人であるDは、当公判廷において、本件当日被告人と一緒にA子と会い、大衆食堂で食事をした旨供述するも、現在Cと同じ広島刑務所に服役中であって、Cやその関係者らから圧力を受けているなどして、A子方に行ったかどうか、被告人がA子に対して覚せい剤を譲渡したかどうかについては供述を拒否している。また、A子と同じマンションに入居していた被告人の知人であるE子は、本件当日、五階(A子方は五階にある)から降りてきた被告人ともう一人の男に会った旨供述している。Dが肝心の点について供述を拒否していることや、A子のマンションに向かうまでの行動に関する供述にも一部曖昧な点が認められること、E子も、いったんは「(被告人が)一人で降りてきました」と供述しながら、直後に「二人で降りてきました」と言い直していることなどからして、両名の右供述のみで、Dが被告人と一緒にA子方に上がったと断定するのは困難である。

しかしながら、被告人は、捜査段階の当初から、「やくざの世界で自分の叔父貴分にあたるCの留守中に、その内妻であるA子方に一人で上がり、覚せい剤を渡したりするずがない」「当日はDと一緒に行動しており、A子方にも一緒に行ったが、覚せい剤を渡したりはしていないので、Dに聞いてもらえば分かる」などと供述しており、当公判廷において、本件当日Dと一緒にA子と待ち合わせをし、三人で食事をして、A子方に行った際の状況について、具体的かつ詳細に供述していることからすると、Dが被告人と一緒にA子方に上がり、被告人とA子のやりとりを目撃していたかどうかはともかくとして、少なくとも、被告人が本件当日Dと一緒にA子と待ち合わせをし、三人で食事をした後、同女方に向かった事実自体は否定し難く、この点についてのA子の供述は虚偽である可能性が極めて高いというべきである。

(五)  ところで、検察官は、A子が特に被告人に対して恨みや反感を持っていたことを窺わせる事情はないと主張する。

そこで、被告人とA子の関係についてさらに検討すると、関係各証拠によれば、A子は、平成六年九月か一〇月ころ被告人が使用していた車を借りて出かけたところ、この車が警察から手配を受けていたため、途中パトカーや白バイに取り囲まれて職務質問を受け、「なんで私があんなことされんにゃいけんのん」などと被告人を厳しく責めたことがあったこと、B及びCは、平成七年二月から四月にかけて逮捕されたが、両名が逮捕されたのは、被告人が警察に密告したからであるとの噂が暴力団関係者の間で広まっており、A子もそのような噂をCらから聞いていたこと、Cが逮捕されて服役することになったため、A子はCの子供を一人で養っていかなければならなくなったこと、A子とBとは家族ぐるみで親しく付き合っていたこと、被告人は、右噂を聞いてBやCに対し釈明の手紙を出したが返事は来ないままであったこと、被告人は、平成七年五月か七月ころファミリーレストランでA子と会った際、その噂は本当かと尋ねられてこれを否定し、釈明したことなどの事実が認められる。

ところで、A子自身は、Cが逮捕された直接のきっかけは、A子が平成七年四月に警察に保護を求めたからであると認めているのであるから、A子が、Cが逮捕された原因は被告人にあるとしてそのことを恨みに思っていたとは考え難い。また、Bが逮捕された原因についても、本件当日A子のほうから被告人を食事に誘っていることからすると、A子が、本件当時も被告人がBを警察に密告したとの噂を信じ、そのことを恨みに思っていたとまでは断定できない。しかし、CやBの被告人に対する態度等からして、Cらは被告人の釈明にもかかわらず右噂を信じていた可能性が高く、そうであるとすると、A子が被告人の釈明を聞いただけでこれを信用し、噂は噂であると思うようになったとも考えにくい。結局、本件当時、被告人がBを警察に密告したのではないかという疑いが完全に晴れていたとはいえず、このことに、A子には覚せい剤の入手先が複数あったが、平成七年四月に逮捕された際にも、本件で逮捕された際にも、被告人以外の覚せい剤の入手先については全く供述していないことなどの事情を総合すると、A子がことさらに被告人に不利な虚偽の供述をする可能性がなかったとはいえない。

(六)  以上によれば、A子の供述には不自然かつ不合理な点や曖昧な点が多々認められ、しかも被告人とA子との関係等に照らし、A子が被告人に不利な虚偽の供述をする可能性も否定できないから、A子の供述は信用できないというべきである。

四  被告人の捜査段階における自白について

また、被告人の捜査段階における自白調書については、平成九年六月一六日付け決定書記載のとおり、いずれもその任意性に疑いがあり、証拠能力を欠くものである。すなわち、警察官調書については、被告人が警察官の「認めれば処分保留を取ってやる」という約束ないし利益誘導に基づいて作成されたものであり、検察官調書については、検察官が警察官の不当な取調べに気付かず、これを概ねなぞるようにして作成されたものであるから、いずれもその任意性に疑いがあり、証拠能力を欠くものである。

五  結論

以上によれば、被告人がA子に対し覚せい剤を譲渡したと認めるには、なお合理的な疑いが残り、したがって本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(裁判官 吉田 彩)

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